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KCI 등재
모토오리 노리나가의 모노노아와레론 재고: 감성적 인식론의 관점에서
박규태
일본연구 17권 299-326(28pages)
UCI I410-ECN-0102-2012-830-003266767

國學の集大成者といわれる本居宣長の思想が我我に常に「一つの挑戰」である所以は何なの か。「實情論」「人情論」「物のあわれ論」などの宣長の歌道論については共感や魅力を覺えな がらも、獨斷的な「漢意論」に基づいた古道論に對しては疑問を感じざるを得ない。だが、本 稿はこうした「歌道と古道の關係」を取り扱うものではない。ただ「物のあわれ論」はその問題 を解くうえで一つの手がかりになるといえよう。ここでいう「物のあわれ」とは度度「纖細な交 感の世界」、「物事に對する感受性」、「物事に感動できる能力」、「何にせよ深くて切ない感 情を産み出すもの」、あるいは一般に「悲哀や憐憫の共感をもたらすような物事のパ―トス」 などを意味する語といわれてきた。ところで、宣長は主に 石上私淑言 紫文要領 源氏物 語玉の小櫛 などにおいて「物のあわれ」の語に注目し、歌および物語なかんずく 源氏物語 に共通の本質がこの「物のあわれ」の一言にあると主張した。その際、彼は從來の佛敎的ある いは儒敎的敎戒の立場からの文藝の捉え方に對抗して、文藝の本質を道德的政治的な敎訓 や效用性にではなく、「物のあわれ」をしること、また「物のあわれ」を人にしらしめ共同化す ることに求めた。こうした宣長以來「物のあわれ」は日本文學一般の本質を表す語として通說 化してゆき、しかも物事に對する共感や一體化するような對象的感受性として、さらには他 者を深く思いやり廣く人情に通じることとして、日本人の情操を表す代表的な用語としても 流通していくことになった。だが、宣長の「物のあわれ論」は決して簡單ではない。それは純 粹文學論と美學論、人間學と神學、文化論と政治論、存在論と認識論のみならず、主體と 對象、規範性と非規範性、知性と感性とのあいだに橫たわっている。本考の目的は、このような複雜さを念頭におきながら、本居宣長の「物のあわれ論」の構造的特徵を主體と對象の 問題として把握する一方、「感性的認識論」の觀點からそれを再考することにある。ひいては 本稿の目指すもう一つのビジョンとして、宣長國學に內藏されている精神的な志向性や「物 のあわれ共同體」とかかわる洞察がいえよう。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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