1910年8月29日、日本は韓國との間で締結きれた幷合條約を公布するとともに、韓國皇室(純 宗、高宗、李I艮)を王族として冊立する旨を詔書として發布した。日本は條約によって、韓國皇 帝の統治權讓與要請を天皇が受諾するという形で韓國幷合を實現した以上、韓國幷合の體裁を 繕う上で、韓國皇帝をむやみに處分することはで與なかったはずである。この王族が朝鮮統治とどの ような關わりをもっていくこととなったかを考察することが本稿の主題である。 本稿では特に李太王の國葬に注目して論を展開していく。李太王とは王族となった高宗の名稱 である。なぜ國葬という特別な人間しか受けられない札遇を、幷合以前に日本に抵抗した李太王 (高宗)が、幷合後の日本において受けることになったのでbあろうか。こうした疑問を解くことで「日 本」における王族の意味、及び彼らと朝鮮統治との關わりを捉えられるのではないだろうかと考えて いる。國葬とは死者に對して行うものであるが、それを見るのは人民である。統治者は李太王を 「日本」の「遺臣」として타り上げて執行していく國葬を通して、如何なる朝鮮觀を示そうとしたの であろうか。