18.97.14.85
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『土佐日記』に見る送別の諸相
민병훈
일본어문학 vol. 49 167-187(21pages)
UCI I410-ECN-0102-2021-800-000638399

『土佐日記』はいろんな面で象徴性を帯びており、貫之の堪能な文芸的機知には想像を絶するものがある。事物を凝視する透徹した論旨や諧謔はまさに読み手を意識した文士気質を如実に示している。日記は土佐におけるほぼ五年間にわたる国守の生活に終止符を打ち、上洛の旅に出ることを軸にしているが、作品のなかには貫之のさまざまな工夫が溶け込まれている。その内、本稿では送別の諸相に秘められた貫之の作意に焦点をあて、追究した。 およそ20日間にわたる送別の様子から、貫之はたくさんの人から絶対的な信頼を受けていたことを披瀝する。老若貴賤の別なく、皆が加わって離任を惜しみ、酒宴などを催している。すなわち、全ての階層の人が貫之自身を慕っており、誠意のある人たちを讃える形を取っているが、実は国人に寛大な父親のような存在であったことをほのめかす内容を作り出しているのである。 しかも貪欲とは無縁なとても清廉で物慾のない地方官であったことを醸し出している。正月の節会に使う品物を用意もせず船出しており、大津を発って京都に向かう途中に寄っていた浦戸から始まる16個所の宿泊地での宴会はもちろん、出来事さえ一切描いていない。話の種を作るならばもっとも都合のいい時だったはずだが、宴会などで無駄遣いをしていないことを主張しようとする作意のためなのか、そこでの逸話をまったく記していない。もしそうであるならば、結局、読ませる物としての意図から、記録に留めていないということができよう。 『土佐日記』執筆の動機には、少なくとも、いかに自分が清廉で、国守としての職務を全うしたかを強調したい気持ちがあったと思われる。つまり、以上の送別の諸相に潜んでいる貫之の何よりの目的は、地方官としての任務を立派に務めたことを見せびらかして、職を求めようとする政治的な思惑があったのではないだろうか。土佐から帰京した935年から貫之は職が得られず、938年には藤原忠平や実頼、師輔にしきりに官職なきを訴えている。この書もそのような状況のなかで編まれており、創作の一環に官職への願望が色濃く反映されていると思われる。

一、はじめに
二、馬の餞の様子
三、船出と歓送の様子
四、結 論
◀ 参考文献▶
[자료제공 : 네이버학술정보]
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