船旅においてなくてはならない存在の楫取は、船上という限られた空間を舞台にしている『土佐日記』の展開においても楫を取った役割を果たしていると言えよう。実際、日記のなかに登場してくる人物に注目すると、楫取の描写の頻度が最も高く、内容を展開する上でも抜いては語れない存在になっている。登場人物の殆んどが精々自然の景色を眺め、歌を詠んだり船酔いで船底に臥したりして微動もしない静的な船の中で、躍動感あふれる楫取と水夫たちの動作が浮彫りになっている。楫取らによって、天候の他は変化の少ない単調な旅の暮らしに弾みが齎されているのである。
『土佐日記』は純粋に苦渋の旅の姿だけを描いた紀行文であり、できるだけ虚構性を押さえようとしていることが見て取れる。そのため、道の案内人である楫取の出番が多くなっているのであろう。貫之は楫取を徹底的に皮肉の対象として描いているが、それはあくまで構造上の意図であり、嫌悪感の現われというより、読み物としての滑稽性を引き立てるために採り入れられたと見るのが妥当であろう。すなわち、楫取は鄙人に対する単なる蔑視の対象としてではなく、雅と俗、精神と肉体の価値観が対立する構造を作るために、巧妙かつ有効に用いられているのである。また、それは作者の貫之の方法だったと思われる。