『恵蓮ヘレン物語』は、〈日本〉に向かう欲望を強く持つ奎澤と、ハングル文字さえも解さない恵蓮とのまったく違った環境で育った二人の結婚生活の始まりから破綻までを描いた風俗小説である。金聖珉の数少ない作品に共通して見られる「内地」(日本)女性にひかれる男である奎澤は、妻である恵蓮が日本語を全く解さないことに不満を持っており、妻が日本語を学ぶことが今後も結婚生活を維持していくための唯一の方法であると考え、恵蓮に言葉を学ばせるために「内地人」の働くカフェーで仕事をさせる。夫を愛していた恵蓮は夫の提言に従い、カフェーで働きながら一生懸命に日本語を学ぶが、次第に二人の間には埋めがたい溝ができていく。
地方から「京城」へ、そして京城から「内地」へと、植民地下朝鮮において〈中央〉の先端部を求め、あこがれ続けてきた男が日本語を操り、「内地」化した理想の〈近代〉女性に仕立てようとした妻に捨てられ、「内地」女性にふられるという結末は、「内地」への欲望を何よりも追い求めたエゴイストが受けるべくして受けた懲罰であった。
東京の流行がすぐさま「京城」の流行となった当時、その「京城」から平壌へ、そしてさらには新京へと遠く北上する語り手である「内地人」女性、樟子の目指す行程は、平壌から京城へと南下し、妻に日本語を学ばせ、また自らも「内地」女性を求めて行動してきた男が、結果的にすべてを失ったことに対するアイロニーとなっているのである。