反面というものはもともと人間の本來の姿やアイデンティティ一を隱匿するためのものであろう。反面の男を登場させる『他人の顔』は、敢えて言うならば、實存的存在であるはずの「自分」というものが、社會的關係を構築する存在でもあり得るかということについて苦心する物語であると思う。本稿では、デリダの「差延」を中心として主體の在處の實存の問題を捉えてみた。テクストの中での「ぼく」は二元論的存在として現れ、第一の他人である妻とも疎通を求める。そのための告白を「書く行爲」として行うが、結局、合一する存在への合致までは辿りつけなくなる。妻との疎通は到達出來ない主體の不完全さを露にしている裝置であったろう。これは結果的に、安部とデリダとの同時代思想の共鳴として捉えることも出來よう。また主體の實存が危ぶまれる時代を象徵してもいるのである。