安龍福の日本經驗は二回に限るのが一般的な認識である。一六九三年四月一八日に鬱陵島にて拉致され、十二月に東萊府使に讓渡されたのが一次經驗で、一六九六年五月に鳥取藩を訪問したのが二回目の經驗で、これが全經驗だという。
拉致された時は四月二十日から二十三日まで福浦にて尋問されてから二十三日には島前へ出港して、福浦にては三泊したわけである。一六九六年には十日ほど隱岐へ泊ったので、住民らと接したとも見られるが、泊ったところが反對側の大久村であった。鳥取藩の賀路から江原道の襄陽へ歸る途中に福浦へ寄った可能性もあるが、現在としては確認できない。從って一般的名認識に根據して安龍福と福浦住民らの交流を想定するなら一六九三年以外には想定できない。所で本 戱文は二ヶ月間抑留されたことになっていて、どちらにも當たらない。二ヶ月間抑留されて歸國する狀況同じである。福浦から長崎へ直行したことになっているが、一六九三年には福浦から米子、鳥取、江戶を經て長崎へ送還されたと言うのが一般的認識である。
よって、戱文が語る朝鮮人の福浦にての生活は上記の二回の經驗とは、別の機會になされた交流を一六九三年の拉致に連携して記したものと見るべきである。編者は安龍福の渡海が二回であったという一般認識を絶對價値にして、隱岐住民と安龍福が別の機會に交流した內容を一六九三年 の拉致の狀況に合わせて記錄したのである。
戱文では朝鮮人にたいする敵對感を伺えない。それは隱岐住民らが安龍福と朴於屯に代表される朝鮮人に敵對意識を持っていなかったからである。それは隱岐住民らが朝鮮人と交流しながら良い關係を結んでいたということを示唆する。住民の認識がそうであったので、傳承される內容に根據する戱文を綴った編者も否定的な內容は記せなかったのである。その点からも、この戱文は旣存の認識と違った機會に行われた交流を根據として作成された可能性がある。