本稿は、1920年代初期、朝鮮社會主義における知的な受容樣態を大杉榮というフィルタ一を通して考察した。大杉榮は單なる西洋アナ一キズムの媒體としての役割にとどまらず、彼自らまとめてきた思想が朝鮮社會主義者たちの世界認識に大きな影響を與えたことを證明できた。とりわけ、當時、社會主義者たちが發行していた左派雜誌は、その時代において知識人たちに社會主義思想を廣める核心的な知識源だったと言えようが、その左派雜誌の起源ともいえる『共濟』や『新生活』に見られる、大杉榮の受容關係を具體的に探ってみた。
『共濟』に見られる大杉の影響は、クロポトキンの紹介者という位相に止まっていなかった。大杉が進化論や哲學や文芸理論を用いて練り上げた、彼獨自の革命的サンジカリズムの痕跡を確認することができた。なお、「征服の事實」という歷史や現狀認識は、マルクスの唯物史觀より、廣く流布していることを、『共濟』だけではなく『新生活』紙上でも確認することができた。これは、大杉の論旨の分かりやすさによるところもあるが、植民地朝鮮といった特殊性が動いたのではないかと推測する。
これまで、初期社會主義における日韓交流關係は、人的な交流の場に限られるか、アナ一キズムやマルクス主義といった、思想系列ごとに受容關係を考察するに止まってきたと思われる。ところが、實際の交流の場は、もっと複雜で、これらのフレ一ムに當てはまらないことを本硏究では確認できた。つまり、大杉榮が朝鮮社會主義に與えた影響は、西洋の理論の紹介に止まらなかった。彼が日本といった空間の中で練り上げた思想や革命戰略が、黨派にかかわらず、ある場合は踏襲を、またある場合は變形を遂げて、植民地朝鮮といった空間に展開して行ったことを明らかにしえたと思う。