『土佐日記』の女性?託については、從來平安女流文學の開花を促す發言として注目され、多くの人によって考察されてきた。すなわち、該當の文章は、當時の男性の漢文日記に對する?名日記を開拓する直接的な契機形成の端緖になるもので、官吏の公人としての立場から逃れて個人的な心情を打ち出すための裝置として見られてきたのである。それは、『土佐日記』を私的な感情を書き綴る日記文學の嚆矢として位置づけることで、現在定說化している。 ところで、今までの諸說を總合的に考えてみると、一つの疑問が浮かび上がる。どうして語り手が女性であることを公言しているか、の点である。それは私見によれば、貫之は女性?託によって政治的に不遇な自分の立場を述べようとしたためではないかと考えられる。そのため、日記の語り手を女性にするだけではもの足らず、冒頭に作爲的な裝置として女性?託の發言を置く必要があったものと見られる。 藤原氏の權勢に押されて一生政治的には不遇であった貫之は、海の彼方にある土佐の守を務め、やっとの思いで歸京することになった。その土佐守として四年間經驗したことやそれに纏わる心情を『土佐日記』として書き綴ったのである。後任者の遲れに對する怒りや海賊討伐をめぐっての恐怖などを述べる部分は、土佐守としての苦勞を表わす。また、自分の淸廉さに關する敍述は、地方官としての善政を仄めかす。他にも、心情的なものとして愛娘の喪失による悲哀、後任者の傲慢な態度や土地の人の現金な態度に對する虛しさなどを描く。それらは、土佐守としての大變さを表わすものであるが、それを描く態度はできるだけ冷靜を保とうとするものであった。現在の狀況への不滿や批判を直接的に吐き出すのは、當時實勢であった藤原氏に對する不滿表出に繫がりやすいし、個人的には人望の無いことになる。そのような面で、亡兒追懷は、親としての心情だから、いくら强調してもそれは人人の批難を被ることはない。むしろそれによって貫之の政治的な不遇がより鮮明に浮かび上がる效果がある。 公式的漢文日記を書くことだけでは、自分の不如意な立場とそれによる苦痛を表わすことができなかった。しかし、心中の感情をそのまま吐露することはまた憚れた。『土佐日記』は高度に方法化された、官僚としての紀貫之の自己表現であったと考えられる。