本論文は1958年モスクワ芸術座の來日公演の時の日本新劇界の反應や影 響關係を考察するのを目指している。1920年代に活躍した築地小劇場の小 山內薰以降、モスクワ芸術座は新劇が目指すべき一つの手本として認識 されていた。この考えを基にして日本の戰後新劇はリアリズム演劇が主 流となっていた。それでモスクワ芸術座の創始者の一人であるスタニス ラフスキ-のシステムについての關心もより熱くなった時期であった。 モスクワ芸術座の來日公演は期待以上の大成功を納め、新劇界はもち ろん、一般の觀客からも替辭が惜しみなく上がった。しかしその興奮は あまり長續きせず、1960年代に入ってブレヒトやベケットなど新しい演劇 の波が押し寄せた。それだけではなく、「反新劇」、「反リアリズム」とい うスロ-ガンを揚げたアングラㆍ小劇場運動が起って、1950年代のスタニ スラフスキ-ブ-ムは冷めてしまった。モスクワ芸術座の來日公演への 記憶もおもむろに忘れられて行った。 本論文ではモスクワ芸術座が來日公演の時披露した演技についての日 本新劇界の反應、特に歌舞伎的な演技と言われた□三人姉妹□の最後の場 面、ソリョ-ヌイとイリ-ナの演技に注目をしたいと思う。これを通じ てスタニスラフスキ-ㆍシステムについてに理解を新しくすると同時 に、モスクワ芸術座の來日公演の意義を振り返してみたいと思う。