本論文は男性同性愛文學を中心として日本LGBT文學硏究の可能性と意義を模索した試論性格の硏究である。LGBTは性少數者、性マイノリティ-全般を總括して呼ぶ用語であるが、LGBT文學の定義はけっして簡單ではない。なぜならば、それは作家がLGBTである文學か、あるいは作品內容にLGBT要素が入った文學か等等、定義の基準と境界が非常に曖昧だからである。このようにLGBT文學は、カテゴリそのものが不確實性を內包している。というわけで、この論文で使われるはという柔軟で包括的な意味で使うことにする。LGBT文學硏究の意義は、まずLGBTという存在を實存的に確認する作業の意義とつながっている。LGBTは究極のマイノリティ-と言える。LGBTは人種、階級、年齡、障碍、性別などの多樣な尺度から差別、疎外されてきたマイノリティ-の中でも明らかに最も周邊的な存在である。LGBT文學硏究は、文學を媒介としてその禁忌の領域と對面することによってLGBT存在を公式的論議の場に回歸させられる效果的契機に成り得る。また、散發的に硏究はされてきたものの、<非正常性>を根據としてその實體と意義は無視、貶められ勝ちだったLGBT文學そのものに對しても同じ期待が抱けるであろう。そういう意味で、その硏究は帝國と植民地、國家と國民、體制と個人など樣樣な<中心と周邊>の非對稱的關係を問題視する現在の文學?化硏究の問題意識に如實に符合する領分でもある。本論文は日本LGBT文學の中でも男性同性愛文學に焦點を當てる。男性同性愛文學は、LGBT文學の中で質量ともに中心的な領域であると同時にその文學の周邊性?マイナ-性を象徵するという意味で兩犧牲を持っているからである。まず、20世紀以後日本近現代小說を對象に<男性同性愛文學>を選別する。選別は<男性同性愛的文學>という相當フレキシブルな基準に基づいて行われた。先行硏究などで論じられた作品を含め關連ウェブサイトなどを參考し、讀解と追加調査過程を經て網羅的に選別した。なるべく嚴正な選定を試みたが、LGBT文學定義そのものの不確實性と文學テキスト群の膨大さの故に、選定作品リストが論者の恣意性と限界性を露呈していることは否めない。でも、なお新たな議論の叩き台としての意義もなた否定できないであろう。今後、具體的に論究されるべき男性同性愛文學硏究の論題を述べると次のようになる。カミングアウトと隱蔽の間、同性愛と異性愛の間、戰前と戰後の間。男性同性愛(文學)はこのような相反する兩領分の境界の上に不安定な形で立たせられている。その文學を規定する各關係の兩者は單純な二項對立の關係ではない。むしろアンビバレンスな兩面價値的關係にある。社會の差別から自分を保護するため隱蔽した同性愛的アイデンティティ-は文學という通路を通してカミングアウトされる。また、同性愛と異性愛の境界は必ずしも明確ではない。戰後、旺盛に發表される男性同性愛文學は戰前から戰後に渡る連續性と斷絶性を兩議的に表象するテキストでもある。さらに、その文學の內的構造を表すキ-ワ-ドとして嫌惡と矜恃、潔癖と戰慄、孤獨と死の三つが擧げられる。以上のようにLGBTという觀點から日本文學を考え直すと、その可能性と限界がともに露呈されてくる。その代表的な限界はやはり화組みそのものの不確實性であるが、その欠乏を逆手にとって可能性や生産性として逆轉の思考を實踐していくところで新しい文學硏究の地平も開かれてくるであろう。<越境と橫斷>、今日、硏究者に望まれるこの方法が單に論理のレベルを乘り越えて省察的姿勢として硏究に投射されるとき、日本LGBT文學は明らかに可能性の領分として現實化できると思われる。