本硏究は,東京大學社會科學硏究所を素材に日本の「戰後社會科學」の形成を知識社會學の手法で追跡し,その意義と限界を檢討しようと試みたものである。社會科學硏硏究所の誕生は,戰前の總力戰體制のもとで彈壓された社會科學という用語を敢えて硏究所の名稱として用いることによって,戰前の日本と決別し新生日本の再生を象徵する事件であった。その社會科學硏究所には,戰前においてその思想や態度を疑われ大學から追われた硏究者が含まれていた。そのことからマルクス主義との親和性が初期の社會科學硏究所の一つの特徵として現れている。また社會科學硏究所には,京城帝大や北京大學など「外地」の大學から撤退し引揚てきた硏究者などが初期のメンバ一として含まれていた。しかし,彼らの戰後の作業のなかに,戰前の植民地經驗が深く根を差した形で分析された痕跡はあまり見られない。それは,社會科學硏究所が目指した目標とも關係するものとして注目すべきである。卽ち,マルクス主義者であれ,近代主義者であれ,社會科學硏究所に集まった硏究者たちは西洋近代に起源をおく社會變革への道程を社會科學的に明らかにし,日本の目指すべき進路として提出することを自らの使命としていたからである。一方,社會科學が何であるべきかという,社會科學そのものの目標をめぐる論爭は余り活發に行われなかった。初期,硏究所に集まった多樣な構成によるものと見られる。社會科學硏究所の社會科學がもつ特徵は次の三つに要約できる。第一,それは「平和」と「民主主義」に學問が貢獻すべきであるという時代的召命を銳く意識しながら展開した。第二に,毆米を事例にした硏究に對比し,比較硏究の對象としてのアジア地域硏究は,毆米の理論から距離を置き內在的理解を求めるものであった。第三に,社會科學硏究所の社會科學の限界として,普遍理論化の努力が不足したという点を指摘することができる。その限界とは別に,社會科學の方法については明確な認識の共有があった。「比較,總合,實證」という三点セットの社會科學方法論は「社會科學硏究所の社會科學」をまとめる最小共倍數であった。特に比較硏究は社會科學硏究所がもっとも得意とするものであり,その素地と原型が初期の15年間に整えられた。ここから「方法としてのアジア」を逆轉させた「方法としての日本」ともいうべき,社會科學硏究所の目指した新しい志向を發見することが可能である。