本論文は、坪內逍遙の「妙想」槪念を中心として、明治初期文學·藝術論の中心槪念として使われていた〈イデア〉という槪念の成立とその槪念の變容過程を分析したものである。西歐の觀念論的美學の骨子をなす「イデア」(Idea)という用語は明治維新が起きてから20年も經たない1880年代にすでに日本の美術界·文學界などの藝術論の中心槪念として登場する。たとえば、『美術眞說』の著者として1880年代日本美術界の理論的なリ―ダであったフェノロサの場合は、「妙想」という言葉で「イデア」を譯しており、二葉亭四迷は「意」·「眞理」という用語で、森鷗外は「想」という用語でそれぞれ飜譯·表現していた。一方、日本近代文學の觀念を構築したと評價される坪內逍遙の場合も『小說神髓』を刊行して後「妙想」という用語で「イデア」の槪念を表していた。逍遙における「妙想」という槪念は、フェノロサの「妙想」(アイジ幸、idea)から始まり何回かの變容を經て確立したものである。フェノロサにとって、「妙想」は「藝術と非藝術を辨える基準」を表す``idea``の飜譯語であった。それが當時の美術會の理論家により「高尙」な情緖や「樂しみ」を「藝術」の享受者に呼び起こす「心的狀態」と結び付いた意味へと變容されたが、彼らはこれを「藝術の目的」とみなしていた。『小說神髓』における「妙想」も大きく見ると、この範疇に屬するといえる。このような「妙想」槪念は、逍遙が二葉亭との交涉を通して彼の「眞理」という槪念を自己文學論の中心に位置づけることによって再び變容された。すなわち、『小說神髓』で「美」や「情」という要素であった「妙想」を二葉亭の「眞理」という槪念に基づき再編したのが逍遙の「妙想論」である。したがって、『小說神髓』以降、逍遙が新たに構築しようとした「眞理論」「妙想論」にはその二つの用語を同時に用いることによって、それまで低く評價されていた小說を他の學問と同等の水準にまで高揚させようとする意圖があった。その中で、小說を中心として「藝術」に基づいた「美文」というジャンルを確立させようとする姿勢がそのような意圖の中に交差していたといえる。