宮本百合子の『播州平野』のテクスト世界を帝國の滅亡の表象を中心に讀み返すと、先行硏究が示したような、社會主義リアリズムの論點から離れた可能性のようなものが讀み取れる。『播州平野』の世界は、1945年8月15日の風景を、現人神であった天皇の身體の不備な存在としての復元、というより、それに對比するひろ子の天皇支配から逃れられた歷史的身體としての復活から語り始める。だだし、ひろ子の身體の完全さは、網走刑務所に入れられている重吉との合體によって、成就されうる、ということがこの物語の基本の骨組みである。ということで、私は、重吉と帝國支配の刑務所から出させ、再會を果たすべく女戰士のミッションがひろ子に與えられた冒險物語として讀むことを提案する。物語は、そのための移住、移動、交流の樣子を展開していくのであるが、そこで觀察される帝國の風景は、帝國による他者の排除や抑壓、帝國崩壞後においては、解放された身體としての欲望に驅られた個個人による他者の排除の構造であった。それを批判的に語る宮本百合子文學は、その代案として、朝鮮人への好感を强くうち出して、連帶の道のりの可能性を取り圍んでいるのである。