本硏究は明治時代後半に書かれた塚原삽시園の『俠足袋』に現われる中國語について考察したものである。明治時代後半は、政策的に漢字節減運動や言文一致運動、國語調査委員會などで、できるだけやさしい漢字と固有語を用いるようにした。しかし、『俠足袋』にはこれとは關係なく、當時の一般人が見て分からない難解な漢字表記が用いられているが、その根源の一つとして中國俗語があった。『俠足袋』には中國俗語の指示·疑問代名詞[這마、這樣、這裏、這個、這回、這般、那마、那樣、那個、恁마、恁樣、즘마、甚마、什마]などがかなりあり、また、明治期の作品に珍しい中國語[~地、東西、쇄家、標致]も多數用いられている。これは塚原が早くから漢學の勉强をしていたが、唐話學にも關心を寄せていたことを示している。勿論、自分の著書に馬琴の本を讀んでいたと言及していて、その影響を受けていることも事實であると考えられる。馬琴の作品には相當の量の中國語が用いられているが、塚原が用いている中國語の一部には馬琴作品にないものもあることから、全面的に馬琴の影響を受入れたとは言いにくい部分もある。つまり、中國文學や語學にも關心を寄せていたし、それが自分の作品にも反映されたと思われる。