平野謙は政治的ではない「春さきの風」の母親の姿と取り上げて、この小說の芸術的完成を言った。もちろん、ここで平野の言っている芸術, 文學とは、政治的言說と切り放されたところに存在するものである。しかし、中野重治は「春さきの風」でけっして政治を排除したわけではない。ただ、彼は一般的に言われる「文學/政治」という二項對立的な樺組みの外側で、他の政治や文學, 芸術を思考したのである。中野の考えた芸術, 文學は芸術大衆化論爭で主張したように、大衆の姿をそのままに描くことであった。ただ、ここで言っている大衆は、たんに集團あるいは階級の一員としての大衆ではない。それは自らを集團に屬する存在として見なすことを拒む「單獨者」としての大衆である。ここでいう單獨者と個人の絶對化とは何の關係もない。大事なのは、個人は社會的關係─いわゆる階級關係─から逃れることはできないのだが、そうだっといってすべてがそこに回收されることでできない、ということである。社會的關係はより多樣な次元で動いている。このような認識の上で中野が注目したのは、そのような多樣な關係の中である時は矛盾を孕んで現れる大衆の姿である。 これまで中野重治において大衆の問題は、彼が大衆志向的な作家であったという点にその焦点が置かれていた。しかし、問題なのは、彼の求めた大衆志向性の內容と方法であり、それの前提となる大衆との關係の在り方である。この問題と關連して本稿で注目したのは、階級意識に還元されない存在としての大衆を中野が見いだしたことであり、それが彼の芸術論の核心をなしているということである。 還元不可能性に對する認識は認識する主體とその對象との間で、ある距離を思い出させる。この点からすると、被植民民族としての朝鮮人は日本人である中野にとって、他者であると同時に、被抑壓大衆の一部である。中野はこのような朝鮮から政治的他者性を見いだしたものの、文化的他者性には沈默で貫いた。一方、東北という列島內の植民地からは文化的他者性を見いだしている。本稿は、このような中野の沈默の背景として、社會主義のもたらした階級的想像力、そして彼を朝鮮と媒介した朝鮮たちが言語および思想の面において、中野とコ―ドを共有したことを指摘した。