本稿では、『南京の基督』における「昔の西洋の傳說のやうな夢」の讀みと「潛伏か完治か」の問題について考察してみた。そして作品に表われたキリスト敎における限界点を中心に考察してみた。キリストを中心とした作品の限界点はなんであろうか。金花の信じるキリストとは、混血の無賴漢で、George Murryという英字新聞の通信員であり、彼は南京の娼婦を一晩買って女の寢ている隙に料金を拂わずに逃げ出すことにまんまと成功したと得意氣に吹聽していたが、その後惡性の梅毒にかかって發狂していたのである。彼女はここで奇蹟の現實に氣づく。惡性をきわめた梅毒が一夜のうちに癒えていたのである。「ではあの人が基督樣だつたのだ」と、彼女は「冷たい敷き石の上に궤いて」「美しいマグダラのマリアのやうに、熱心な祈禱を捧げ」る。これは、キリスト敎の信仰をお伽話として批評したもので旅行者の感想はそのまま知識人芥川のキリスト敎徒一般に對する感想でもあるのである。また、このような原因はどこから起因するだろうか。作品成立のための芸術的要請と人間的要請の幷存が新しい技巧を生み出した。円熟した技巧がいかにもこの作家らしい、多彩な曼陀羅模樣をくりひろげている。一つの物語を描き、それにある種の批判を加えるのに、半年の時間を置くという巧みな計算がここにあったのである。