植民地朝鮮における天理敎運動は植民地體制下の支配國の宗敎としてのジレンマを持つものであった。當時の天理敎運動は多くの場合、病氣や死という平穩な日常性からの離脫した次元を背景に展開され、日本人の布敎者と韓國人の信者の間には對面的な關係がもたらす情緖的信賴感が構築されていた。このような事實からすれば、天理敎運動は植民地社會の支配―被支配の兩國の關係の狀況論理を前提として說明することができなくなる。が、社會的な存在である宗敎集團としての天理敎運動が植民地社會の秩序原理と無關係ではいられなかってことも事實である。したがって、植民地朝鮮における天理敎運動は歷史的な脈絡の中で位置づけられる「植民地布敎」と宗敎運動の必然的な廣がりとして位置づけられる「海外布敎」という兩側面に對する檢討が必要となる。兩國の民俗社會の共通的な基盤の上で展開された天理敎運動は、植民地統治という政治的な狀況によって條件付けられたことは確かであるが、にもかかわらず、病氣や死という「限界的な狀況」を媒介に成立した信仰的連帶には、時代的な狀況に還元されないそれ自體の歷史的存在根据があった。兩國民衆の交流の場が非日常性のカテゴリ―に屬したものであったが故に、時代的觀念の世界の影響から離れた生活者としての共感帶を形成することができたのである。