芥川龍之介の『地獄變』の特徵は、初盤に登場人物の相互關係を說明するのに作品の約四分の一を割いており、後半部に入ればナレ―タ―は次第に地獄變相圖の完成過程の說明に變わるところである。ナレ―タ―はこの過程を通して作者芥川の芸術至上主義の如何なるを表明するに至る。それならば、芥川の芸術至上主義は『地獄變』を通して、どのように形成されたか、また芥川固有の芸術至上主義はどのようなものであったか、彼の芸術において芸術至上主義の限界はどこにあったのかという、いわゆる芥川の芸術至上主義の內實を糾明してみた。『地獄變』は大殿が良秀に地獄變相圖の屛風を描くことを言い付けた、彼の世俗的權力の濫用から始まる。もう一つは見たことのないものは描くことができないという良秀の「卽物主義」がここに相乘作用をする。この二人の要因によって一人娘は燒かれ、良秀も自ら命を絶ち、大殿は『邪宗門』に描寫されているように最後には慘めな最後を迎える。結局この作品は「芸術」と「人生」の殘忍な係わり合いが描かれていると言ってもよい。人間の內部に存在する不條理な魔的なことに操縱されて大殿と良秀がその娘とともに地獄の闇に墮落して行く過程を描いた作品であると言える。雪解の御所で娘を乘せた檳랑毛の車が燃える。良秀の顔は恍惚と法悅にきらめき、その威嚴が鳥にも人にも鼓動する。このなかでナレ―タ―は、ひいては作家はこの作品を通して自分が表明したかった芸術至上主義を明らかにする。一月後地獄變の屛風の繪は完成された。良秀が大殿に見せると一緖にいた橫川の僧都はかつて良秀を人面獸心の曲者だと批判したにもかかわらず、大きく譽める。以後良秀の惡口は邸宅內では聞こえない。翌日良秀は自分の部屋で繩をかけて縊れ死んだ。死骸は良秀家の跡に埋まる。やがて數十年の風雨に쇄されて誰の墓とも知れなくて、苔が生えたというナレ―ションで作品は終わる。芥川はいわゆる彼の芸術至上主義の作品の中でも多分『地獄變』に自分の芸術と芸術家としての運命を最も意味深長に扱ったと言える。しかしそれは「人生」の犧牲を擔保にする悽絶な「芸術」の勝利であった。『地獄變』で芸術の勝利を描いた芥川は決してその勝利を滿足する勝利として考えていない。彼には少なくとも『地獄變』は芸術の不幸な勝利そのものであった。不幸な芸術家の姿は自分の通恨の念を入れた彼の絶筆である『齒車』にまでそのエコ―が響きわたる。