この論文は朝鮮通信使が日本の生態的な環境と文化的な環境をどのように認識したかを明らかにしようとするものである。朝鮮通信使は朝鮮王朝から日本に12回派遣され、膨大な使行記錄を殘した。そのなかでも1718年に派遣された申維翰の『海遊錄』は綿密な觀察と流暢な漢詩などで評價が高い。また、1763年に派遣された趙엄の使行記錄も崔天宗の殺人事件などを含めて注目される点が多い。しかし、同じく18世紀の日本を體驗しながら、二人が書いた日本の姿はだいぶん異なっている。申維翰は、日本の生態的な環境を高く評價し、惠まれた自然環境を漢詩として詠むことができない日本人に代わり、自らの役割を强く意識している。一方、趙엄は申維翰が仙境として詠った日本の自然環境を、時間の經過にしたがって一部は認めながらも、仙境としての位置づけには反對の立場を表明し、韓國の山山を仙境として評價する意見に對しても否定的な立場をとっている。趙엄は日本人が誇りを持っている富士山についても白頭山と比較しながら、物理的な關連性を模索する實證主義的な姿勢を示す。このような兩者の違いは、時代的な推移もあろうが、兩者が置かれた社會的な立場によるものだと思われる。卽ち、申維翰は出世に限界がある庶類の出身で、その文才が評價され朝鮮通信使の一行に加わったと考えられるが、趙엄は由緖ある家柄の出身で、將來が期待される人物である。その使行中に使行團の一員が殺害される事件を經驗したことからも、趙엄の記錄は他のものより比較的、現實を冷靜視したものといえよう。したがって、兩者の記錄の違いは、個人的な趣向の違いを超えて置かれた社會的な立場と個人的な體驗を通して、自分の役割に對する十分な理解が下地にあったと推定される。