中國の傳統的な數理觀とは異質的なユ―クリッドの『原論』(Elementa)の演繹的ないし公理系的な思惟體系が中國に初めて傳わったのは、周知のごとく、明末に來華したイエズス會宣敎師マテオ·リッチ(Matteo Ricci, 漢名利瑪竇)が徐光啓とともにクラビウスの『原論注解』の前6卷を漢驛し刊行した『幾何原本』を通じてである。だが、淸初康熙帝の時代にもユ―クリッドの『原論』が再び飜驛され、『幾何原本』と『算法原本』との名で刊行されたことはあまり知られていない。ルイ14世が派遣した、いわゆる「王の數學者」(les mathematiciens du Roi)であるフランス人イエズス會宣敎師ブ―ヴェ(Joachim Bouvet, 漢名白晉)とジェルビヨン(J.-Francois Gerbillon, 漢名張誠)によって飜驛されたと思われるそれらの數學書は、萬歷『幾何原本』がラテン語から漢驛されたのに對し、フランス語底本から、まず滿洲語に飜驛された後に最終的に漢驛された。本稿では、日本東洋文庫所藏本滿文『算法原本』(Suwan fa yuwan ben bithe)を中心として、ユ―クリッド初等整數論が中國に初めて傳わった歷史的な徑緯を明らかにし、かかる滿文『算法原本』と漢文『算法原本』、そして『數理精蘊』の該當部分の內容分析を通じて、その受容における知的「變奏」を浮き彫りにすることによって、淸代西學受容史の觀點から滿文科學書の存在意義を探るとともに、東アジアの傳統的思惟體系とヨ―ロッパの公理系ないし演繹的思惟體系との歷史的出會いの一側面を檢討したい。