「檀君神話」は韓國の傳統正を確認してくれる重要な神話的物語である。そのような重要な意味を持つ神話であるが、いままであまり正當な評價が成されていない。それは內容の緻密な分析が成されていないからである。また歷史的に近代以降日本や中國によって硏究が成されたという理由もあるが、それ以上に韓國人による檀君神話硏究の始めが、侵略の正當性を求めた日本の硏究を否定することから始まったからであろう。そしてその後、日本の硏究の名殘から自らの正統生を證明する「檀君神話」を否定するようにまでなったのである。まずはそのような硏究方法からの脫却が求められるのではないだろうか。私はそのような立場から『三國遣事』の「檀君神話」の分析を試みた。特に神話の中で桓雄が天から降臨する場面がある。いわゆる「天降」であるが、その場面の解釋を新たに試みたのである。いままでの硏究では、桓雄が天から降臨する前から、地上には當然のように「人」が存在していたとされてきた。しかし『三國遺事』の「檀君神話」では、そのようなことはどこにも述べられていない。つまり「地」に元元「人」が存在していたとは語られないのである。テキストをそのままに讀んで解釋するならば、桓雄と一緖に「天」から降臨した「伯·師·徒」らが「人」としてはじめて成ったと見るべきではないだろうか。「天」からの血筋が「地」にまでおよび、「天」によってその「地」の正統性は守られるのである。